■2004-12-07
* [メモ] 貧者の武器
先日の「詭弁のガイドライン」は議論できない人ほどを持ち出したがるように見える 理由。
問題は、メディア・リテラシーの言説はむしろ、メディア・テキストをご都合主義的に信じたり信じなかったりする、というか「解釈」する言い訳にむしろ使われている、ということがある。(中略)思うに、こうした、メタ批判によって外部から与えられる情報と距離をとるという傾向はもっと一般的にいえるのであって、詭弁のガイドラインのようなものもそうだろう。こうしたメタ批判は、その適用において恣意的で選択的になることがないための抑制の原理がない限り、いつでも、外部情報の内容を、具体的に検証することなく拒絶する方法論に堕してしまう。(note of vermilion)
他者に対し適用することは、自分に対しても適用するように。内省的に心がけたいものです。自分内ストロングプログラム〜(違)
* [雑感] 議論は何のためにするか
「タワーけもの」のアイコンでお世話になっているサロン・ド・よしださんからトラックバックが! ……どうもご無沙汰しております。
相手の意見に穴を見つけたり、言い負かせば勝ちなのか? 勝った側の意見は正しいという事になるのか? (中略)
嘘や誤認識を含めて、色々な意見や見方がある状態を普通であるとみなしているので、意見が会わない人を言い負かそう、とかいう態度を取るにも、相手にそういう態度を取られるにも腰が引けてしまうのだが、こういうのはあまり論理的でない、と言われる態度なんでしょうかね。(議論とは真実への途に非ず)
月並みではありますが、私は、議論は自分の認識を深めるために行うものであって、「勝ち負け」を競うものではないと理解しています。自分の認識が誤った事実に基づくのなら、その誤りを指摘して貰った方が有り難いです。自分の認識に論理的な矛盾があれば、それを指摘してくれた方が、よりよいものになるかもしれません。もしかしたらならないかもしれませんし、矛盾の指摘をどうしても受け入れられないかもしれません。そういったものも含めて結局、議論は自分のために行うものです。だからそこに「勝ち負け」はないんです。
議論するということは、他者との交わりを通じて自分の狭い認識が広がっていくということです(広がるような相手と議論した方が良いですし、そのための努力を自分自身でしなければなりませんが)。その結果自分の観えている世界が変わるかもしれませんし、自分の意見が変わるかもしれません。そういう恐怖が絶えずついてまわります。だから、自分の意見に固執する人、自分の見たくないこと知りたくないことから目を背ける人は、たぶん議論のできない人です。ことさら「詭弁のガイドライン」を持ち出す(jounoさん言うところの「外部情報の内容を具体的に検証することなく拒絶する」)人というのは、まさにそのような人なのではないかと思うのです。
奇しくも読解力低下のニュースが報じられる昨今ですが。<br>議論のための議論が多いように見受けられるのも故なのか由なのか。<br><br>自分も議論は苦手ですが肝に銘じて以下略
どうも、おひさしぶりです。<br>自分が話題にした「勝ち負けのある議論」ってのはディベートという奴(か、その模倣的なもの)だったのかもしれません^^;
>みさん<br>>議論のための議論<br>結局、言いっぱなしなんでしょうねぇ。人の話に耳を傾ける、他人の書いたものを理解しようとする……そういった努力をしないと議論は成り立たないわけですから。そう考えると「読解力低下」と「議論のための議論」は相互作用してるというのもあり得そうです。<br><br>>まこちんさん<br>お久しぶりです〜<br>>ディベート<br>あ、なるほど。ちなみに私はディベートは議論する力を弱める気がして好きになれません。