■2004-04-17
* [雑感] なんで「ギスギスしてる」というかといいますと(くどい)
長いので、面倒な方は今日の分はとばしてください。
今、大通りの信号が青になったので、一人の老人が重い荷物をもって渡ろうとしています。ところが渡りきる前に信号は点滅を始めます。このとき、困っている老人のために、道路に駆け出して手助けしようとした人がいたとしましょう。
この老人のもとに駆けだした人をどう思いますか? まあ、運転手の立場だったら「邪魔だなあ」と思うこともあるかもしれません。かといって、おいそれとひき殺すわけにもいきませんよね。ところが、歩道でそれを見ている人達が、「道路に出るなんてあいつはバカだ」「轢かれて死んでも自己責任だ」「渋滞になって迷惑した!経済損失弁償しる!」とかいう姿を想像してみてください。これが今この国で起きていることだと思えば、私がこの日誌でギスギスした社会だと表現するのも理解してもらえるでしょうか(え? 例えが極端ですって? そりゃ極端にしないと面白くないですし)。
そこである人がいいました。「そうはいっても、誰かが助けにいかなきゃならんでしょ?」と。そこで歩道にいる人達はさらに続けます。「困っている人を助けるのはいい。だがそれは警察の仕事だ」「人助けしたければもっと近くの困っている人がいるはず。わざわざ道路まで助けにいくのも問題だ」と。これが今この国で起きていることだと思えば、私がこの日誌でギスギ(以下略)。
このありがちな「ボランティアはいい。だがイラクまでいく必要はない」というのも身勝手な話でして、これこそ何様ですか? という感じですね。誰がどこへ活動しに行こうとその人の勝手です。それを他人がとやかくいう筋合いはない、ということは先だっても書いた通りです(とやかくいうべきものがあるとしたらそれは、彼らのリスク回避の技術的な問題点を明らかにすることでしょう)。だいたいこの考えだとイラク人以外はイラクで活動する必要なくなるという素敵な結論になってしまいましょ?
それからよくあるのが「仕事で活動する人は仕方がないから自己責任ではない」という主張。こういうことを言う人は、仕事を「賃労働」としてしか理解していないんじゃないかなと。多くの方もご存じのように、英語に"calling"というのがありまして、つまり、クトゥルフの呼び……ではなくて、召命、天職、職業、さらには「なすべき務めに駆り立てる強い衝動」(リーダーズ英和辞書第二版より)てな具合。イラクに行くというのは彼らにとってのcallingであるとするならば、それもまた「仕事」でしょう(だいたい日本語の仕事だってここみるとわかりますように、「生計を立てるために従事する勤め。職業」であると同時に、「するべきこと。しなければならないこと」となってますよ)。何を「なすべきこと」とするかは各人が決めることです。他人がとやかくいうことではないでしょう(アドバイスとかならわかりますが)。
パウエルが軍隊も含めて、「日本人は彼らを誇りに思うべきだ」といえる背景には、ある種の召命観が根底にあるのではないかと思ったり思わなかったり(どっち?)。(※私は「他人の行為」を誇りに思うほど厚顔無恥ではありませんが、少なくとも彼らに難癖をつける行為を自分がとったなら、それは自分にとって「恥ずべきこと」ぐらいには思っています。)
まあどうも、歩道にいる人にとっては「正しいことをしていると思ってる奴が嫌い」「政治的主張をする奴が嫌い」ということらしいのですが、それならご自分が「正しいと思うことをしない」「自衛隊派遣に賛成などという政治的な主張はしない」でひきこもっていれば良いだけのことで、他人をとやかくいう必要はありませんね。「迷惑かけるな」ということでしたら、上の歩道で文句たれている人は役立たずなくせに、人助けをしようとする人の足をひっぱっている分、質が悪いと(もちろん、人助けをしようとして結果的にその後に続いて人助けをしうようとする人の活動に支障をきたしてしまうかどうかは考える必要があります。が、それとは切り離して考えなければなりません)。
* 徒然草第八十五段
の途中から。
至りて愚かなる人は、たまたま賢なる人を見て、これを憎む。「大きなる利を得んがために、少 (スコ)しきの利を受けず、偽(イツハ)り飾りて名を立てんとす」と謗(ソシ)る。己れが心に違(タガ)へるによりてこの嘲(アザケ)りをなすにて知りぬ、この人は、下愚(カグ)の性(セイ)移るべからず、偽りて小利(セウリ)をも辞(ジ)すべからず、仮りにも賢を学ぶべからず。
狂人の真似(マネ)とて大路(オホチ)を走らば、即ち狂人なり。悪人の真似とて人を殺さば、悪人なり。驥(キ)を学ぶは驥の類(タグ)ひ、舜(シユン)を学ぶは舜の徒(トモガラ)なり。偽りても賢を学ばんを、賢といふべし。(tureduregusaより)
現代語訳。イラクに行った人が「賢」かどうかは私の知るところではありませんが、悪人、狂人のまねをする「至りて愚かなる人」で方舟はいっぱい、てなところでしょうか。
今更ですがやはり昔から言われることは同じですね。<br>仁和寺の法師に学べと。<br>天は自ら助くる者を助けと。<br><br>それはそれとして、やっぱり今回は協会と政府でややあったのだろうと邪推して楽しむ昨今です。
先達はあらまほしきっちゅうことですかね。<br>協会と政府……あったんですかねぇ。そのうち明らかになるのかなあ。